続・続集団療法

集団療法への参加は十回以上になると思う。参加することが日課になり、初期の緊張から離れ、面白いと思えるようになった。他の患者さんの顔も覚え、診療所でも顔なじみになりつつある。
他の患者さんの性格もなんとなくわかるようになった。初めて会ったときは興味で話を聴いていたのだが、数回会ううちにこの人はこういうひとなのだと思うようになった。回を重ねるごとに患者さんの症状もなんとなく予想がつくようになった。
最近、新顔が現れた。明らかにサラリーマン風で歳は自分より少し上か。自分自身が始めてケアに参加したころを思い出す。集団療法は症状が回復傾向・軽い状況と主治医が判断した場合に参加できる。よって重度の方は居ないのだが、また重度になる場合もある。サラリーマン風の人も重度を抜けて今ここに居るのだろうと思い、共感が持てた。ただ、コミュニケーションを図るとやや違和感を受けた。
違和感は何なのか。実際に社会で活躍している人々は、独特の作法に基づいて他人とコミュニケーションを図る。それが丁寧語であったり、自分から観て過剰な気の利かせようであったりする。ただ、コレばかりで毎日が過ぎてゆくのはつまらない。日々、色々なひとと接することで単一の関係から脱出し心のバランスが保てる状況をつくりださなければならない。

ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)

ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)

社会復帰を目前に控え、ながらく敬語というものに接する機会がなかった。そもそも敬語ってなんなんだということに興味を持ち読んでみた。本書はまさにこれに応えるものだ。また、読者を十代前半としていることから、内容が非常に平易だ。著者は専門家なのだが、これほど平易に書けるというのは凄いことだ。ややともすると専門用語に陥り、何のことかわからなくなるのがこういった新書によくあることだからだ。なかでも面白かったところは、先生のいる職員室に呼ばれて、初めに言うことばだ。普通は、

(先生の前に立って、)
「来たよ。」

なのだが、正確を期して敬語を用いるなら、

(職員室の床に座って、そこに手をついて、)
「お召しによりまして、参上仕りましてございます。」

とのこと。つまり敬語は正確に用いようとするなら、時代劇のようになってしまう。現代社会ではどこまでが良くて、どのような話かたであれば「敬語をしらない!」などと言われなくてすむのか。本書は、素朴な疑問に答えてくれる。