永遠のいのち

脈絡も無く、つらつらと書く。こころの動きを落ち着かせるために。読まれる方にはご容赦願いたい。
人のいのちを考える。人と接するにあたり、その人が有限の存在であることなど、普段気にもとめない。もちろん、むかつくこともあるし、共感できることもある。楽しい表情、怒りの表情など、その人の顔を見て話をすると、その気持ちが伝わってくるものだ。正面から向き合って、その人が何を考えているのかを汲み取ろうとする。相手がそこに存在し、一生のうちでとても短い時間を共有しているのだ。
人は動物と違い、他者と連帯することを通じ、二人以上で協調してものごとを成し遂げることが可能である。そのためにお互い知るためには、ややともすると情報過多なぐらいに、内面をさらけだす。それは相手を知りたいと思うからこそだ。本当の話がしたい、真実を知りたい、真剣に思いを伝えたいと思うならば、このような意思疎通の瞬間は誰にでもあるだろうし、そうせざるを得ないだろう。また、相手が眼中にあれば、自由にこうした意思疎通の実現が可能になる。
ところが、それは永遠には続かない。気がつけば相手は存在しなくなるのだ。人の生命は無限ではなく、自分と相手が同時に消えることはない。相手が先に消えるか、自分が先に消えるかだ。そこには、残された人がいるし、先に消えた存在がある。これを受け容れることに対して容易に迎合できないのは、人の常なのだろうか。長く生きると、周りが消えることに慣れるのか。長く生きたのならば、消えることは当然のことなのか。突然消えることは不自然なことなのか。いろいろ考えてしまう。
どうしても受け容れがたいことは、相手が先に消えることだ。こんなことは、一生受け容れられない。みんなそうだろう。居なくなることは、こんなに悲しいものなのかと思う。居なくなって初めて気づくのかもしれないし、そうではないのかもしれない。必ず、悲哀が待っているだろうし、それを受け容れなければならないだろう。一回しかない生命を大事にすごすのかどうか。人は相手という関係があって、はじめて自分の存在を確かめているのかもしれない。また、孤独であればあるほど、自分の存在意義を探すのかもしれない。個人の存在と他との関係を考えたとき、実は後者が原因で前者が結果なのかもしれない。
いのちは最後がある。死を想像したとき、自分を見つめなおすことにもなる。人に生まれ、やがて絶命することが決定付けられていることを、真正面から受け容れることができないでいる。自分にとって、どうか死なないで欲しい、生きて欲しい、と思う人がいる。

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友人が日産マーチに乗って四国を新婚旅行した。神戸から徳島へ。徳島といえば「眉山」でしょ!と言っていた。そんな経緯で、興味をもって見た。大傑作だと思う。涙なしには観れない作品。個人的に共感するところが多々あり、あまりにも心に染入る映画だった。