研究者は職人か。

「研究者は職人だ」と、学者の卵である友人が言った。言われた時点では、そのようなものかと思った。
何かの成果を出すにあたり、決まった手法や、新たな手法を用いて、何かの結果を出す。これを繰り返すため、熟練され「職人」となるのか。研究には、定性的なものを追い求める分野と、数値を交えた実証的なものがある。前者には哲学や文学が当たるのだろうか。後者は科学である。非科学的なものが排除される傾向にあるのは、世の中が科学的なものにより豊かになったためだろう。(この書き方自体非科学的だが。)そもそも、冒頭の話は、仮説実証型の分野における話を指すのだが、実のところ、仮説ほど人間らしいものはない。言い換えると仮説こそ、定性的なものなのだ。
定性的な仮説を唱える理由は、何かを実証したい動機によるものだと考えるのが自然でなかろうか。そうすると動機そのものは世のなかの要請であるわけだ。さらに、その結果を表す方法は、無機質な数値の羅列ではなく、特定の見方を誘導する「わかりやすい」図がしばしば用いられる。非科学的なものから出発し、科学的なものをとおし、やがて非科学的なものに戻る。出発と終着を把握すうことは、オセロをヒックリ返すがごとく、科学的なものに手を出すこととなる。
また、科学的なもの自体、手段の一つに過ぎないのだから、「研究者は職人だ」となるのか。世の中は分業が進み、職種により「やるべきこと」は制限されている気がする。本来的には、手段が目的ではなく、その前後を正しく捉えることが一番重要なのだ。研究者は世の中をリードする使命がある。研究者自身が手段の一つになることは無い。そうであるからこそ、研究者で在りうるのだ。
「問題意識をもち、果敢に仮説を考える姿こそ研究者の求められる姿勢である」と最近になって思うようになった。ただ、「職人」には、その分野で深みがある。これについても今後考えてみたい。