比較無しには語れない

人が感じる物事の良し悪しは相対評価だ。現状に不満足でも客観的に観るには対照となる事象が存在しなければなんとも評価しがたい。職場に不満があれど他の職場で働いた経験がなければどれほどのものかわからない。だからといって2つの職場より、3つの職場と、多ければ多いほど評価の正確性は上がる。一方で、どれほど職場を経験すれば、満足する正確性を得られるのだろうか。井の中の蛙と言えど、どこからが井戸の外なのかわからない。
世の中の職場が母集団であれば、どれほどの分位で母集団を代表しているのかをある程度定める必要がある。一方で、時代はどんどん流れるし、これに伴い職場は変化する。よって、いつまでたっても「この職場が普通」なんてのはないのだ。
能動的に職場を経験すれば良いと思う。「探し続けて自分の居心地が良いところが終の職場なのだ。」というのは言い過ぎだろうか。あくまでも評価は自己の主観的な評価が最終着地点なのだから。もし、この”終の職場”を見つけられたのならば、逆に大変な環境で耐え忍ぶことが馬鹿馬鹿しくなるのだろうか。かえって、耐えることも重要だと認識することもあるのだろうか。
ただし、酷い環境であることが判断できないほど、凝り固まってしまうことは避けなければならない。ある程度の数の職場を経験することは健康的で望ましい姿ではなかろうか。と思ったりする。

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拘置所の中の描写はリアルだ。非日常が描かれはじめて眼にするものには新鮮だ。立証の難しい事件の判決は、この科学の進んだ世の中でも事実に沿ったものであるとは限らない。論理立った説明がなされるか。幾万通りの中で納得度の高い説明が選択される。説明が困難な状況であるほど、その結果は事実に沿わない可能性が高くなる。裁判という制度の限界を描写しつつも裁判が全てではないと、裁判制度そのものに対して否定的な映画とも思えない。中々深い作品だ。